徹夜明けの温泉はビリリと熱い|朝がきたら、でかけよう 第1話「久松温泉」編

早起きは三文の徳と言うけれど、徹夜明けの朝にだって良いことがある。

フリーランスのライターとして独立して早2年。仕上がった原稿をチェックし、納品を済ませたところで伸びをひとつ。これが真夜中だったらベッドに直行するコースだ。机の上の時計が示す時刻は8時半。窓から注ぐまだ柔らかい日差しに、小学生の頃の夏休みを思い出す。

こんな朝には自分に小さなご褒美をあげたい。凝り固まった身体をほぐすには、やっぱり温泉が一番! と、携帯用タオルと着替えの入った「銭湯セット」をクローゼットから取り出した。今からのんびり準備して出かければ、10時の開店に間に合いそう。

東急池上線に乗り込み、池上駅で降りた。北口を出て、バスロータリーと交番を通り過ぎたらしばらく直進する。花屋さんのある角を左に曲がると、いつもの白い煙突が見えてきた。

鉄筋コンクリートの建物の前には「久松温泉」の看板が。ご年配の常連客が何人も並んで開店を待っている。「おはようございます」と挨拶を交わし、列の後ろに並んだ。

わたしが暮らす大田区には、約40店舗もの銭湯があるらしい。このエリアには昔から「黒湯」と呼ばれる黒褐色の温泉が出る。昭和30年にここ池上で開業した久松温泉は、黒湯が楽しめるいくつかの銭湯の中でも飛び抜けてお湯が熱い。最初はびっくりしたけれど、だんだんその熱さがクセになって通うようになった。10時から24時までという営業時間の長さも、思い立ったときにひとっ風呂浴びに行けるのでうれしい。

10時になり、従業員の方が扉を開けてくれた。レトロな靴箱に履物を入れてロビーに足を踏み入れると、昔懐かしい番台がお出迎え。

「ずいぶん久しぶりじゃない、元気だった?」
「急に雨が降ってきてびっくりしたけど、狐の嫁入りみたいなものね」

番台に座ったおばさまとお客さんとの会話に耳を傾けつつ、視線はロビーの端に置いてある冷蔵庫に釘付けに。ショーケースの最下段に並ぶのは、瓶入りの牛乳、フルーツ牛乳、コーヒー牛乳!

この前はコーヒー牛乳を飲んだから、今日はフルーツ牛乳にしようかな。たまにはオーソドックスに牛乳もいいかも。あぁ、アイスもいいなぁ……湯上がり後のお楽しみに胸をときめかせながら、女湯の暖簾をくぐった。

全体的に広々としたつくりの久松温泉は、脱衣所も天井が高くて気持ちいい。年季の入った水色のロッカーに、ひと休みできるテーブルやベンチ。いつか使ってみたいマッサージチェア。一台だけ置いてあるべビーベッドは、その昔、住み込みの番頭さんが入浴中のお母さんに代わり、赤ちゃんのお世話をしてあげていた頃の名残りなんだそう。以前、女将さんに教えてもらった。

いざ、浴場へ。白いタイルがレトロでかわいい。不思議なかたちの浴槽に注がれている黒湯は、かなり色が濃くて底が見えない。クリーム色の桶でお湯を掬うと、コーヒーのような黒褐色。はじめてここに来たときには、あまりに黒くて驚いたっけ。膝の下からのかけ湯でも、43度の熱いお湯の刺激がビリビリくる。

黒湯の浴槽はふたつあって、奥に向かって左側の方が熱くて底も深い。右の浴槽は、冷えた源泉が出る蛇口で温度調整できるので、わたしはこちらに浸かることが多い。

再び、かけ湯で身体を慣れさせてから、ゆっくり浸かっていく。全身をじんわり温めてくれる黒湯は、化粧水のような滑らかな肌触り。天井の吹き抜けが清々しい。ふーっと大きく息を吐きながら、少し前に女将さんに教えてもらったことをまた思い出す。

「大昔はね、このあたりはシダの群生地だったそうなのよ。氷河期になって地中に埋まったシダの成分が地下水に溶け出したのが、黒湯だって言われているの」

太古の植物からの恵みを今、受けているのだと思うとすごくロマンを感じる。肩まで浸かるとすぐに汗が吹き出してくるので長居はできないけれど、やっぱり、仕事の疲れを癒やすにはこの熱さじゃないと。

しっかり温まった後には、浴場の奥に設けられた涼み場へ向かうのがわたしの定番。ガラス張りの小さな温室のような空間には、公園の街灯に似た照明に、観葉植物やベンチもある。火照った身体を冷ましながら、心地良い風が吹くとうたた寝をしてしまいそう。気取らないけれど、とびきり贅沢な朝時間だ。

着替えを済ませたらロビーに戻り、大きなソファで湯上がりの一杯。迷った末に今日はフルーツ牛乳をチョイスした。隣に座ったおじいちゃんは牛乳を一気飲み。わたしも負けじとごくごく喉を鳴らして、懐かしい甘さのフルーツ牛乳を飲み干した。

開店直後から久松温泉は大繁盛で、次から次へとお客さんがやってくる。楽しそうに階段を登っていくのは、連れ立ってやってきたおばあちゃんたち。2階には大広間の宴会場があり、軽食が注文できて、出前や食べ物の持ち込みもOK。入場料1000円で夕方まで過ごせて温泉にも入れるので、お年寄りの憩いの場になっているんだそう。

かつて、昭和の時代に踊りの先生を呼んでいた宴会場には立派な舞台がある。今でも素敵に活用されていて、定期的に落語会が開かれたり、学生が演劇の公演をしたり。落語会には、そのうち足を運んでみたいなぁ。

心も身体もリフレッシュして、足取り軽く外へ出た。すぐ家に帰って休むつもりだったのに、すっかり元気になってしまった。せっかくだから、どこかへ寄っていこうかな。

だって、まだ今日ははじまったばかり。

取材:田中未来 編集:菊地飛鳥 企画構成:haletto編集部

写真:川瀬一絵
島根県出雲市出身。忘れっぽいことへの焦燥感から写真を撮り始め、些細な体感を収集するように撮影を続けている。
近所や訪れた先々で適当に散歩して道に迷うのが趣味。
http://yukaistudio.com/?cat=22

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天然黒湯温泉 歌と踊りの久松温泉

東京都大田区池上3-31-16
TEL:03-3751-0119
営業時間:10:00-24:00(定休日を除く平日・土曜・日曜)
※最終入館は30分前まで
※2階大広間休憩所は10:00-19:00
定休日:火曜(祝日の場合は営業)
料金:大人(12歳以上)460円 中学生300円
6才以上12才未満(小学生)180円
6才未満(未就学児)80円
※未就学児は大人1人につき2名まで無料
http://www.hisamatsu-onsen.com/

浅草生まれ、千葉県育ち。美術館めぐりと田舎旅が好き。国境や、街の端っこ、最近は灯台と海、馬のいる場所に夢中。京都でたまに、借りぐらし。日本酒が毎晩の相棒です。

この特集について

朝がきたら、でかけよう ― 2018年7月号

フリーランスのライターとして独立したのを機に移り住んだ大田区。五反田から蒲田へと、ぐるりと弧を描く東急池上線沿いには、昔ながらの下町の素朴さが色濃く残った街が集まっている。 仕事柄、日々いろいろな場所へ取材へ出かけるので都営浅草線も使えるのは便利。締め切りに追われ、つい生活が不規則になりがちだけど、朝の時間をのんびりと過ごすのがたまの楽しみだ。 通勤ラッシュが落ち着いた電車に乗り込んでもいいし、晴れた日なら自転車も気持ちいい。徹夜明けの朝、早起きした朝、取材に向かう前。お気に入りの場所に足を運べば、それだけで素敵な1日になりそう。 おはよう、さぁ出かけよう。朝風呂、お散歩、モーニング。今朝は、どこに行こうかな。