【東京ではじめて、本の世界に触れた街・江戸川橋】 辻山良雄
2018.06.19
はじめて通った東京の街は、下北沢だった。
いまでは、栃木県にある実家の最寄り駅から新宿に出るにも電車1本で済むのだが、当時は上野か池袋に一度出て、そこから山手線に乗って新宿。そして、小田急線に乗り換えて下北沢、といった具合だった。
当時というのは、私が17才だった頃。20年前のことである。私は、毎週日曜日、その頃所属していた芸能事務所が開いていた演技・ダンスレッスンに通っていた。
下北沢駅南口を出て、右側にある商店街をひたすらまっすぐに。餃子の王将を越えたその先に、レッスン場はあった。
俳優の卵たちに紛れ、一生懸命セリフを言い、一生懸命踊った。どんなに練習をしても、そのセリフやダンスが日の目を見ることはないと知りながら、それでも懸命に取り組んでいた。
卵たちの中でも、中心人物になれる者となれない者がいた。私は明らかなる後者だった。それでも、元々経験があったダンスには自信があったし、先生にも褒められた。けれど、センターは取れなかった。芸能人というのは、技術だけではなく、華や主張が必要なのだということをはじめて突きつけられた瞬間だったように思う。
それでも、まずは事務所の人たちに自分の存在を知ってもらわなければならない。分かってはいたけれど、私は一向に主張できなかった。
ある時、地元の高校でクラスメイトだった子が同じ事務所に入った。日曜日、栃木の駅で待ち合わせをして、一緒にレッスン場に向かった。しかし下北沢の餃子の王将あたりで立ち止まり「なんか……もういっか……」。私たちは踵を返した。
新宿の高島屋には、当時ジョイポリスという室内遊園地があった。そこで遊ぶお金はなかったけれど、その入り口にディッピンドッツというアイス屋さんがあった。私たちは好きなフレーバーを選び、ベンチに並んで腰掛けて食べた。「サボっちゃったね」「サボっちゃったね」「これ美味しいね」「美味しいね」。食べ終わり次第、俯きながら栃木に帰った。
その日以降、私がレッスンに行くことはなくなった。
サボったことを事務所から咎められることはなかった。それがかえって恥ずかしかった。
いてもいなくても、どのみち誰にも気がついてもらえない。
虚しかった。
あるとき、事務所主催の舞台を新宿に観にいった。主な出演者は、かつてレッスンを共にしていた卵たちだった。卵たちは、日の目を見たのである。もちろん、レッスンに参加していない私には出演する権利などなかった。終演後、事務所の社長が卵たちの軍団を見渡すと、一番端っこにいた私を指さして「あの子だれ? 大人しくて可愛いわね。売れるわ」と言った。死ぬ気で舞台に上がった子たちを尻目に、私が社長のお眼鏡に叶ってしまったのである。いま舞台を終えたばかりで、清々しい達成感を得ているはずの卵たちから受ける視線は、すごく痛かった。
レッスンに来ていないくせに、いやもしかすると来ていないからこそ「あの子だれ?」と興味を持ってもらえたのだとしたら、卵たちからすれば理不尽極まりない話だろう。だからそれからの私は、誰よりも演技を勉強し、どんなことにも必死に耐えた。頑張って頑張って、頑張りつくしたと思う。
あれから20年。
下北沢のレッスン場はなくなった。南口もなくなった。新宿のジョイポリスも、高島屋のディッピンドッツもなくなった。
女優として食べていけるようになったいまも、下北沢や新宿の街に行くたびに、レッスンをサボったこと、卵たちから受けた視線、を思い出す。
そのたび、まだ17才の私が、現在37才の私に向かって大声で叫んでくる気がする。
「もう諦めんなよ! 進め!」と。
レッスン、すなわち、教えてもらう、ということ。
演技やダンスだけではない。人間は生きている限り、常に何かしらのレッスンを受けているようなものだと思う。
他人からはもちろん、過去の自分からも、レッスンを受けた気がした、20年後のいま。
このコラムについて
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