【東京ではじめて登った山・金時山】 若菜晃子

同じ箱根の駒ヶ岳へはこれまでに何度も登ったが、金時山はとんとご無沙汰

子ども時代は日々の生活に海と山の風景のある神戸で過ごしたので、父の転勤に伴い、高校時代に東京へ引っ越してきてしばらくは、周囲に海も山もないことが寂しかった。以前なら、家の近所のバス停から山の稜線がうっすらと見えていたし、山の中腹にあった学校の窓からは街の向こうにゆったりと海が光っていた。どこに行ってしまったのかなあ、あの山や海は。
高校に通う電車から見る景色も、ただただ、だだっぴろいばかりで、山の影すらない。これが関東平野か。大変なところに来てしまったという気持ちだった。

山の見えない東京に来てはじめての山登りは学校登山で、場所は箱根にある金時山だった。金時山は関東では知られた初心者向けの山で、危険箇所もなく展望もよいので、山好きの国語の先生が計画したのだと思われるが、これがまた登りのきつい山で、ただもうしんどいだけで、なんてつまらないんだろうと思った。子どもの頃は山が近しかったのに、すっかり遠のいたようだった。
級友たちもぶうぶう言いながら登っていて、若い女性の英語の先生も辛そうで、立ち止まっては休んでいた。それでも先生の足もとには、登ってきた分だけの、高度感のある空間が明るく広がっているのを、見てはいたのだ。

駒ヶ岳山頂からは湖岸のライン美しい芦ノ湖を静寂のうちに見下ろせる

その後も山からは遠ざかっていたのだが、社会人になって、登山の専門出版社に入社して、あちこちの山に登って、退社後も日常的に山に登るようになった。そのせいか時折人と話していると、「中学高校時代の学校登山が嫌で山が苦手になりました」と言われることがある。そんなときは、「私も高校で登った山がしんどくて、あの頃は自分が山のある人生を送るとは思いもしませんでした」と答える。
「でも今登ってみたら案外楽しいかもしれませんよ」。そう言うと、大抵の人は目を輝かせて、「じつは登ってみたい気持ちはあるんです」と言う。

何事も自分で体験してみなければわからないし、体験したことだけがのちに実になる。そしてときを経ればまた違う視点になって、同じ体験でも別の風景が見えることもある。
東京に越した当初、海も山も間近に見えないことにしょげていた私も、そうやってだんだんに、この大都市を大きく取り巻いている自然に目を向けるようになった。長年なんとなく避けてきた金時山にも、今年の春あたり登ってみようかと思う。

WRITER

編集者。大学卒業後、山と溪谷社入社。『wandel』編集長、『山と溪谷』副編集長を経て独立。山や自然、旅に関する雑誌、書籍を編集、執筆。著書に『東京近郊ミニハイク』、『東京周辺ヒルトップ散歩』、『世界の路地裏』、『徒歩旅行』、『地元菓子』、『石井桃子のことば』、『東京甘味食堂』、『街と山のあいだ』などがある。「街と山のあいだ」をテーマにした雑誌『murren』編集・発行人

このコラムについて

わたしのはじめての東京

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