85年という時を守り続ける人々と「銀座奥野ビル306号室」に住んだ最後の住人

訪れたのは、昭和7年に建てられたレトロなアパートメント

私が「銀座奥野ビル306号室」の存在を知ったのは、アート好きの友達の「空間そのものがアート作品のような場所があるよ」という一言がきっかけ。気になって調べてみると、そこでは「奥野ビル306号室プロジェクト」という定期的に写真家やアーティストによる作品展示が行われている取り組みがありました。
こちらの部屋は普段は一般の人も自由に出入りできるよう解放されています。戦前の昭和7年に建てられた古いアパートメントの一室。そこにはどんなものがあり、そしてどのような人たちが集まっているのでしょうか。

モダンな街並みのなかで、異彩を放つ「銀座奥野ビル」

降り立ったのは地下鉄有楽町線の「銀座1丁目駅」。大手百貨店やおしゃれなレストランが立ち並ぶモダンな街並みのなか「銀座奥野ビル」はありました。その外観は見るからに古くて、その建物が経てきた時間の長さが感じられます。なんだか「銀座奥野ビル」がある場所だけ古き時代の雰囲気が漂っているよう。
建物の中に足を踏み入れるとレトロな印象のエントランスが目に飛び込んできます。まるで昭和初期の時代にタイムスリップしたかのような不思議な気分に。「306号室」のある3階には、エレベーターで向かうことにしました。

驚いたのは、設置されているエレベーターがかなり旧式のものだったこと。

ガラガラと扉を開けて乗り込んだ後、また自分で扉を閉めるんです。初めて利用する人はちょっぴり戸惑うかもしれませんが映画でしか見たことがない光景に思わず心が踊ってしまいます。
このレトロなエレベーターの文字盤は各階ごとに色味やデザインが少しずつ異なります。「最上階まで上がって、文字盤のデザインをチェックしながら降りて楽しんでみてください。」と奥野ビルの所有者である奥野さん に教えていただきました。

古い時代の空気感が、そのままに残された空間

ギャラリーやアトリエをいくつか通り過ぎるとついに「306号室」を見つけました。部屋の前には「スダ美容室」という看板が掲げられています。「美容室?」と少し疑問に感じながらも部屋の扉を開けると、
 
ペンキの剥がれ落ちかけた壁、ささくれの立った柱 、すすけた窓ガラスといった“古いもの”で凝縮された空間が広がっていました。そしてそれらをそっと包み込むようにごく柔らかい太陽の光が部屋の中に注ぎ込んでいます。
この部屋も部屋に置かれている物も、気の遠くなるほどの長い年月を経てきたのでしょう。部屋にしばらく身を置いているとそれらがこれまでの歴史を語りかけてくるかのような錯覚に陥りました。

「古いものを守りたい」という気持ちから「銀座奥野ビル306号室プロジェクト」が始動

この「306号室」を管理している「銀座奥野ビル306号室プロジェクト」の会員の一人であり、作家の黑多 弘文さん。黑多さんは、かつて「306号室」の隣にあるギャラリーでアルバイトをしながら、作家として展示もされていました。
 

「306号室」はなんと元々は美容室だった場所。オーナーは秋田県出身の美容師・須田芳子さんという方でした。(写真左)

須田芳子さんは「銀座奥野ビル」が完成したのとほぼ同時にこの「306号室」を借り、美容室をオープンさせました。昭和60年代までお店を開き続け、そしてお店を閉めた後は「306号室」に家具などを移し、暮らされていたようです。水道設備などが劣化しつつあったため、その頃から「奥野ビル」の部屋に人が住むことは推奨されていませんでしたが、須田さんだけ特別に住むことを許され、奥野ビルの最後の住人となりました。

当時から、銀座で買い物をすることは女性たちにとってステータスだった時代。須田さんはとてもおしゃれな方で、晩年もよく紅をさして、銀座のデパートへお買い物に出かけていました。そしておよそ80年間、一度も地元である秋田に戻ることなく、銀座でその生涯をまっとうされました。

 
須田芳子さんは2009年に亡くなり、306号室は一時空き家に。しかし「306号室」に他にはない歴史的価値を見出した人たちにより、この部屋は管理・保護されることになりました。それが「銀座奥野ビル306号室プロジェクト」の始まりです。
 
部屋の状態や空気感をそのまま残すため、最初の数年間は部屋の掃除をすることもなかったそう。また、湿気と乾燥にさらされ続けた壁のペンキは、徐々に剥がれおち、窓ガラスもくすんでひび割れてい ましたが、「修理しよう」と言い出すメンバーは誰もいませんでした。部屋が持つ“古さ”に、誰もが大きな魅力と価値を感じたことがその理由です。
 

黑多さんは若い頃にアメリカを訪れた際、人々が気軽に博物館や美術館に訪れる姿を見てカルチャーショックを受けました。その背景には、それらの博物館や美術館の多くが毎週金曜日に入場料をディスカウントすること、多くのアメリカ人が幼少期にギャラリーを訪れる習慣を身につける、といった文化的な違いがありました。さらにはギャラリーの多くが若いクリエイターに対して協力的なため、資金がなかったとしても、展示のチャンスを与えられることもよくあるとお話してくださいました。

このような若い頃の経験がベースとなり、黑多さんは「もっと多くの日本人に気軽にアートを楽しんでもらいたい」と考えるように。また、アートが好きな人たちで集まれる“遊び場”のような場所がほしいと考えたことも「奥野ビル306号室プロジェクト」を立ち上げるきっかけとなりました。

「このスペースを訪れたことをきっかけにアートに興味を持ち、そして他のギャラリーにも足を運んでもらえたら嬉しいですね」と熱く語る黑多さんの姿がありました。

まるで”アート作品“のような空間

“古いもの”しかないがゆえに「306号室」の空間は全体的に調和がとられています。もしもピカピカの壁紙や柱といった“新しいもの”が一つでも投入されていたら、調和が崩れ、この部屋のもつ魅力は半減してしまうでしょう。「306号室」は、部屋そのものがまさにアート作品なのだとつくづく感じました。
 
“新しいもの”や”きれいなもの”が良しとされる傾向の強い現代において、「306号室」は独特な魅力と存在感を放っています。この場所にだけ、ゆったりとした悠久の時が流れているかのよう。黑多さんは部屋の片隅にある長椅子に腰掛けて、光がうつろう様子を眺めながら過ごされることも多いそう。それはとても穏やかで、贅沢な時間なのではないでしょうか。

古いものへの愛着と、強い思いが感じられる場所

昨今では古民家カフェや工場跡地を利用したオフィスなど、“リノベーション”が施された施設が多く見受けられるようになりました。“古いもの”に手を加え、現代において広く受け入れられるものへと作り変えることは、とても意義のあること。また古さと新しさが混在するそれらの施設には、他にはない大きな魅力を感じます。
しかし、「銀座奥野ビル」のように古い時代の雰囲気が色濃く残されている場所は、都内でもなかなか見つからないもの。ここには、古いものへの強い愛着心からそれらを守り抜こうとする人々の強い思いがありました。

「奥野ビル306号室」では今後も写真展や朗読会といったイベントが開催されると聞きました。アート作品のような空間と作家たちの作品は絶妙に融合し、きっと深い味わいを感じさせてくれるはず。他のどんなギャラリーにもないような空気感と作品を求めてぜひまた足を運びたいと思います。

奥野ビル

住所:東京都中央区銀座1-9-8. 奥野ビル306号室
ライター

千葉県生まれ。食べ歩きとお酒、島巡りが好きです。ワインと日本酒の奥深さに感動し最近スクールに足を運んだりするようになりました。

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